我≠幸福

昨日の話で思うのですが、



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この世がうまくゆかないのは、「我」のせいなんですよね。

」とは、「欲望」そのものです。(「自我」とは違う)




例えば、


「私は思うのは、、、」「私がしたいのは、、、」というのは自我に属しますが、

「私が正しい。」「私はしたくない。」となると欲望です。



自我に目覚めるのはいいとして、そこに「欲望」が絡むと今の日本のようになります。

自分勝手で、自分のことしか考えなくて、自分さえ良ければいい。


これは間違った自我の教育による弊害ですね。

自我=自分勝手ではないのです。


社会とは集団で構成されますから、この間違った(自我と思っている)(欲望)は、今後もこの国の「治安の悪化」と「生きにくさ」を助長するでしょう。


さらに言えば、



「我」(欲望)=「幸福」ではありません。



なぜなら、「我」(欲望)には際限がないからです。我を通して一時的に上手くいったと思っても、結局は(我が)再び現状に不満を覚え、それを解消しようと我を通そうとします。この繰り返しになるわけです。



では「幸福」とはどんな状態でしょうか?



「幸福」とは「我」(欲望)を捨てた状態であるとお釈迦さまは説きました。



「そんなバカな!」と思われるでしょうか?


それならばこんな例えはどうでしょう。


恋愛に夢中になったとき、人は「我」を忘れて相手を想います。

その時に「私は!私が!」とは言わないですよね。


これが幸福の本質です。






もっとも、今は「我」を捨てろと言っても笑われてしまいそうですね。

では、どうするべきか?



私は「互いの距離を縮めるしかない」と思うのです。

その方法は一方が近づくことで距離を縮めることもできます。(どちらかが折れる)

でも本来ならお互いが近づけるといいですよね。それには建設的な話し合い(会話)が必要だと思うのです。



もしも、どちらかが折れず、感情的になって建設的な話し合いができないでいたなら、その人たちの距離は縮むどころか、お互いの我(欲望)によってますます離れてゆきます。



「我」(欲望)とはそのような性格であるのです。



これが私の考える「我」(欲望)と「幸福」のメカニズムです。



とはいうものの、なかなか難しいですね。一方が近づこうとしても他方が我に縛られるなら、かなりの困難が予測されますから。それでも「幸福」≠「我」(欲望)であると信じられるのなら、また違った未来があるのかもしれません。でも、それを否定するのが今の教育であり、社会です。


けれども私はお互いの距離を縮めることこそ、「幸福」であると信じています。だから、私もそのようにありたいと思っています。


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欲望 幸福

2 Comments

ま~ねん  

むぅ

最近はちょっと体調が下降気味で
Tv見る気分でもなく さっさと寝てしまってたけど

母とちょっと喧嘩? 喧嘩ではないけど
娘の分際ですが 母にちょっと注意をし、
母が拗ねてしまっております><

娘の私が言うのもどうかと思うけど
我を通す母・・・
私も妹も まじで手をやいちゃいます><
80歳近くまできたし 今更かわらないねー と諦めてるけど・・・

そう言う私も頑固やしなぁー ><
体調が悪くなってるのは母のせいやーーーーとか思う私・・
ほんと こまったもんです(´艸‘)

2018/05/20 (Sun) 21:16 | EDIT | REPLY |   

ひまわり  

Re: むぅ

ま~ねんさん

難しいですよね。身内だとかまわないわけにもいかないし。

お釈迦さまそれを患いとして、家族愛を棄てろと修行者に対して言われました。

実際の家庭ではそうはいかないですけどね。

結局、お互いが向上しあわないとダメなんですよね。

片方だけだとすれ違いです

家族とはいえ私と全く同じわけにはいかないのでそこのところをどう自分が処分するかという目線が必要かなと思います。

とても難しいですけどね。

2018/05/21 (Mon) 06:56 | REPLY |   

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