【 第一 蛇の章 】 5 チュンダ

85 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたくしに説き明かしてください。」

86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。

87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ

88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。

89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。

90 (彼らの特長を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」

[ブッダのことば(スッタニパータ)中村 元訳]




<道を汚す者>として、こう説いています。

善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、、、、

どこかで見たことはありませんか?

こういう人はお釈迦様の時代にもいたのですね。そして今もいる。

そして続いてこうも説いています。

(彼らの特長を)聞いて、<道の人>と呼ばれながら<道の人ではない>と洞察したのなら、それに従がわなくても信仰をがなくなったとは言わない。どうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。

簡単に言えば、「<道の人>を名乗りながら<道の人>のするべき行いをしない人ならば従う必要はない。」ということです。

さすがお釈迦様ですね。

私が「なまくら仏教」にはまったく興味がないのはこれに由来します。<教えを説きながら自分が行わない>のが今の仏教ですからね。



私がお釈迦様の言葉にこだわるのは<道を実践した人>だからです。仏教に興味がなく、原始仏教の経典(よりお釈迦様の生の言葉に近い経典)を読むのにはこのような意味があるのです。

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