【 第2 小なる章 】 5 スーチローマ

わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はガヤー(村)のタンキク石床におけるスーチローマという神霊(夜叉)の住居におられた。そのときカラという神霊とスーチローマという神霊に言った、「かれは<道の人>である」と。(スーチローマという神霊は言った)、
かれは真の<道の人>であるか、或いは似而非の<道の人>であるかを、わたしが知らないうちは、かれは真の<道の人>ではなくて、似而非の<道の人>である。」
[ブッダのことば(スッタニパータ)中村 元訳]



今回はたびたび登場する神霊(夜叉)との問答です。

「夜叉なんていないよ。」と一笑に付すのはいいですが、重要なのは問答の内容であって私は夜叉の存在の有無には興味がありません。

そこでスーチローマという神霊は、師のもとに至り、そうして身を師に近づけた。ところが師は身を退けた。そこでスーチローマという神霊は師にいった、「<道の人>よ。汝はわたしを恐れるのか。」(師いわく)、「友よ。わたしは汝を恐れているのではない。しかし汝に触れることは悪いのだ。」(スーチローマという神霊はいった)、「<道の人>よ。わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答しないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけよう。」

 (師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わが両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見ない。友よ。汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け。」

 そこでスーチローマという神霊は、次の詩を以て、師に呼びかけた。──



ここからが本題です。

270 貪欲嫌悪とはいかなる原因から生じるのであるか。好きと嫌いと身の毛もよだつこと(戦慄)とはどこから生ずるのであるか。諸々の妄想はどこから起こって、心を投げうつのであるか?──あたかもこどもらが鳥を投げて棄てるように。



271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。

272 それらは愛執から起こり、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の執著していることは、譬えば、つる草が林の中にはびこっているようなものである。

273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとずいて起こるかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかって渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。




貧欲と嫌悪、妄想はすべて自分の心の中から生じる

それらは愛執(愛着)から来ていることであり、様々なことに執着することが原因であるとお釈迦様は説いています。

これら煩悩の原因を知ること(執着をしない事)こそが解脱に到達する道であるということです。

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