神の定義 私論

「神」という言葉は一つだが、神のイメージは多種多様にある。

これらが数々の悲劇を生んできたのは歴史を振り返れば理解できるはずだ。

争いは「神への信仰」という言い訳から始まるのだ。


これらの神は「もの言う神」(分類1)である。

典型的なのはユダヤ教をはじめ、キリスト教、イスラム教に共通であるはずの「主(神)」である。

そこには必ず言葉を語る者の存在がある。そして、その言葉を語る者によって、またはそれを解釈する者によって、その言葉は違ったように解釈される。

つまり、「もの言う神」は人を介しておろされる言葉を信仰対象とするのである。



これに対し、「ものを言わぬ神」(分類2)は言葉をおろさない。

例えば自然現象や天然物がその例である。

自然現象や天然物は言葉の介在を必要としない。現象として現れる変化そのものを「神の御業」と理解する。

この御業に人の解釈は多くなるが、変化自体は人を介することのない現象のみであるのだから言葉の介在は必要ない。




上記2分類の神は簡単に言うなら「言葉」と「存在」によって確かめられる神である。



次の分類3の神は「現象のない神」(分類3)である。この神もまた「ものを言わぬ神」(分類2)であるのだが、根本的にその性質が異なる。

分類2に分けられる「ものを言わぬ神」は物理的に存在する、あるいは現象として可視化できる象徴が存在する。しかし分類3の神は「物理的存在のない神」なのである。

その典型が「この世を構成する原理原則への畏怖」である。


「この世を構成する原理原則への畏怖」は神と呼べるものなのだろうか?という疑問が浮かぶかもしれない。

でもそれは「ものを言わぬ神」(分類2)つまり、自然や現象への信仰(畏怖)と同様のものではないだろうか?



簡単ではあるが私は神の定義を上記のように3つの分類によって見分けている。これは根源的視野で信仰対象としての神を分類したものである。

もちろん、「神はあるか?」の疑問に対しての見解はまた別の話になる。

この分類はあくまで「信仰対象としての神」を利便的に大まかに分けたということである。



「神はあるか?」の私論はまた違う機会に記事にしたいと思う。

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