私は「自ら生きている」のではなく「生かされている」と知ると生きやすくなるのです。

外は雨なので今日は暇です。( *´艸`)

と言うことで久しぶりに哲学的?宗教的?真理的?精神的?な話題をお届けしましょう。



私は生きているのではなく生かされている~


「私は生きているのではなく生かされている」と知るのなら、生きる意味命の存在意義についてより深い思慮ができるようになるでしょう。

そしてこれが、私の知る最善の「生きる理由」でもあります。




私の命は自分のモノではない

私の命は自分のモノではない。

こう書くと「私の命は私のモノ以外何物でもない!」と憤慨する人もいるでしょう。でもそれは間違いです。

なぜなら、私は命は私によって生かされているわけではないからです。その証拠に私の命の長さ(寿命)を私自身が決められません。




命は私以外の存在によって生かされている~

命は私以外の存在によって生かされているのです。

人はその力を「」と呼んだり、「創造主」と呼んだり、「この世の法則」と呼んだりしています。

もっとも、この「私を生かしている力」の正体は人間には永久に解明できません。

なぜならそれは人間の思考の限界の外にある世界だからです。



同じようなことに「宇宙の広さ」「宇宙の誕生」「死後の世界」も人は永久に解明できません。

これも「人間の思考の限界の外にある世界」だからです。いうなれば「この世とは違う異次元」とでも言えましょうか。

物理的な存在そのものがうつろう世界ですから、今はすでに過去になり未来も必ず存在するとは言えません。つまり何一つ確かなもののない世界に論理的な仕組みが存在するわけがないのです。(科学を否定するわけではなく真理的な解明が不可能であるということ)


少し話がそれました。


私の命と存在そのものは借り物である~

私の命は自分のモノではない事を理解できるのなら、私の命と存在そのものは借り物である事も理解できるでしょう。

つまり、「私は私であって実のところ私ではない」のです。

ついてこれますか?



「私は私であって実のところ私ではない」私は何者なのか?~

例えるなら、「ゲームの中の主人公」であり、「VRの中の世界を見つめる視点」です。

ゲームの中に主人公の私はいるけど、実の私はゲームを操る私です。

VRの中の世界には仮想空間を見つめる私の視点があります。でもそれを見つめるのは本当の私ではない。本当の私はVRゴーグルを被った私です。

つまり、この世の私は「ゲームの中の主人公」「仮想空間を見つめる私」と同じと考えるべきなのです。真の自分は違うところにいるかもしれないし、そうでないかもしれない。(自分と言うものが本来ないのかもしれない)

このような視点で見ると、この世の自分(「ゲームの中の主人公」「仮想空間を見つめる私」)は見えない力で生かされているのに気が付くはずです。

もうついてこれませんか?




結局のところ何が言いたいのか?と言うと、

「私は何かしらの力で生かされている」と知るのなら、私の存在自体はその力によって存在意義がすでに証明されるということです。

これを知るのなら私がこの世に生まれてきた意味に気が付くでしょう。

私が孤独感に苛まれるときに、「私の存在はその力と繋がっている」と知るなら孤独感も薄らぐでしょう。

そして「他の命も私と同じその何かしらの力によって生かされている」と知るのなら「他の命の尊さ」も知ることができるでしょう。




「生きているのではなく生かされている自分の存在」を知った時、人は強くなり、優しくなれるのです。




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2 Comments

ほそひと  

なんだか安心できました。

2019/10/13 (Sun) 09:37 | REPLY |   

ひまわり  

ほそひとさん

まあ、あっているかは分からないですけどね。( *´艸`)

私はそう信じています。

2019/10/13 (Sun) 15:09 | REPLY |   

コメント