『生かされている』という真実がわかれば何も恐れることはない。

私がこの世界に生きているのは『生かされている』からこそだと思っています。

普通は『私自身で生きている』と思っている人が多いと思うのだけど、それは間違いです。

その理由はどこかで書いたと思うのですけど、どこだったかな?


簡単に理由を書くと、『私の命は私自身で長さを決められない』と言うことが『生かされている』という証拠だと思います。





では、『私は何によって生かされているのか?』


その答えは現世では分からないでしょう。もしかしたら死んだらわかるかもしれません。あるいは分からないかもしれませんが。


とにかく、私の命は私自身のモノであって、私以外のモノでもあるわけです。

もっと言うならば命は私のモノではなくて「借り物」だと思います。『レンタル中の私の命』ですかね。


今、命を使っているのは私だけど、その所有者は「他の何物か?」なんです。そういうイメージ。






私はなぜか?現世に生まれてきました。その理由がわかりますか?

私はわかりません。記憶にありません。

でも、きっと何かの目的があるのだと思います。その答えは死ぬまで分からないでしょうが。



どちらにせよ、生まれた以上死ぬことは避けられない約束なのです。永遠の命などこの世に存在しない。これはこの世の真理です。

生きている時間が長くても、短くても結局『死』によって現世から離脱するわけです。例外はありません。


 

では『この世で何をすべきか?』

この検証は今回はやめておきましょう。




今回は『すべての命は自身の命ではなく現世のためにレンタルされたモノである』(生かされている)と、こう考えられるか?どうかです。




もしも『すべての命は自身の命ではなく現世のためにレンタルされたモノである』ことが理解できるのなら、他の命の存在を自分のモノと同じように考えられるでしょう。

他の命も私同様に、「何物か」によってレンタルされたものだと理解するからです。

その命の重みはあなたの命と同じなのがわかるでしょう。



『私の命がレンタルされたモノである』ならば、レンタルされた限られた時間を貴重に感じるでしょう。すべての命は死によってその命を返上しなければいけないとわかるからです。


『私の命がレンタルされたモノである』ならば、「私は何を為すべきか?」が理解されるでしょう。他の命を奪ったり、脅かしたり、支配することのために命がレンタルされるでしょうか?




お釈迦様の教え『慈愛』はこのような考え方から来ていると私は思います。




命の本当の所有者たる「何物か」はすべての命の所有者であるわけですから、ひとつの小さな命でさえ無下には扱わないでしょう。むしろすべての命を親が子を思うように愛おしく感じていることでしょう。

だからこそ、憎悪や復讐に満ちた『神』と言われるものを私は信じないのです。

その『神』と言われるモノは『愛と言う名の支配』と『従順を命令する憎悪』とに由来する邪悪な存在とさえ思えます。本当の所有者たる「何物か」であれば、そんな小細工をする必要があるでしょうか?私たちに命を吹き込むことのできる想像を絶する力をお持ちなのですから。



『私の命がレンタルされたモノである』からこそ、命を返上するときにレンタルされた命を有効に使用で来たか?が問われるのです。それは「レンタルした私」と「所有者たる何者か?」の2つの眼によって評価されるでしょう。


『生かされている』という真理を知ることは私の命が返上されたときのことさえこのように考えることができるようになるのです。

このことを知る者が「命を粗末に扱うわけはありません。」「命の時間を無駄に使うわけはありません。」「他の命を下に見ることはありません。」

ゆえに命を返上すること(死)を恐れることはないのです。




これがお釈迦さまの教えなのです。


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2 Comments

ほそひと  

自分にとっては難しくてよくわかりませんが、いつか「何者」を感じることができるかもしれないですね。

2020/03/26 (Thu) 23:56 | REPLY |   

ひまわり  

ほそひとさん

「生かされている」ことを感じれば、すべての「わだかまり」や「執着」から解放されると思います。そんな感じです。


2020/03/27 (Fri) 09:33 | REPLY |   

コメント